「今月の洋書」の記事を前回投稿したのは5月1日なのでおよそ5ヶ月ぶりの更新になります。「今月の」と言いながら更新がたいぶ遅れてしまいました。いろいろと忙しかったというのもあるのですが、『白鯨』が大長編なのでなかなか読み終えることができなかった、というのが一番の理由です。
古典文学は難しそうですが笑えるところもたくさんありますので、引用と共に紹介します。
メルヴィルについて
Herman Melville(ハーマン・メルヴィル)は、1819年ニューヨーク出身の小説家です。同時代のアメリカの作家にはホーソーンやホイットマンがいます。なんと、メルヴィルとホイットマンは同い年でもあります。
ホイットマン自身も捕鯨船の乗組員や海軍の水兵の経験もあり、その経験が『白鯨』を生み出すことに繋がります。1951年に出版されるものの、それほど評価はされず不遇な作家生活を送っていたようです。
『白鯨』はサマセット・モームの『世界十大小説』に取り上げられたことでも有名ですが、死後に再評価され、メルヴィルはアメリカ文学を語るのに欠かせない作家になりました。
白鯨について
原題はMoby-Dick; or, The Whale
自らの片脚を白鯨に奪われたエイハブ船長が復讐のために世界中の海を探し回るというストーリー。語り手のイシュマエルや乗組員たちは、白鯨に取り憑かれた船長に翻弄されながらも彼の復讐の旅に付き合うことになります。
何だかおもしろそうな海洋冒険小説になりそうですが、白鯨はただの物語ではありません。
鯨や捕鯨に関するあらゆる知識が詰め込まれ、物語の展開に関係なさそうな膨大な引用や解説に振り落とされてしまう読者もいます。「難しい」と感じてしまう人もいるかもしれませんが、あらゆるものを取り込めるのが「小説」の醍醐味でもあり、メルヴィルが「小説」という入れ物を拡大したとも言えます。
エイハブ船長やメルヴィルの執念に感嘆するのも白鯨の楽しみ方のひとつです。
もちろん海洋冒険物語としてもおもしろく、魅力的な登場人物がたくさん出てきます。
Call me Ishmael. Some years ago—never mind how long precisely—having little or no money in my purse, and nothing particular to interest me on shore, I thought I would sail about a little and see the watery part of the world.
Moby-Dick CHAPTER I
ぼくのことはイシュマエルと呼んでほしい。数年前 ー 正確な時期は気にしないでほしいんだけど ー 財布にお金はほとんどないか全くないかで、陸地には特に興味を引くものが何もなくて、ちょっと船を出して世界の海を見ようと思ったんだ。
有名な冒頭文です。
Ishmael(イシュマエル)は旧約聖書「創世記」に出てくる登場人物です。アブラハムの庶子で、追放される捨て子のような存在です。
なぜ語り手は本名を名乗らずIshmaelと呼ばせたのでしょうか。いろいろな考察があるようですが、この世界に望まれていない子として、地上を捨てて海に出ていく語り手のことを表すのにはうってつけの名前です。
メルヴィルの小説には、この世界に馴染めない人たちが多く登場します。
また、Ahab(エイハブ)船長も旧約聖書のイスラエル王の名前です。エイハブはまさにThe Pequod(ピークォド号)の王として振る舞います。
For a Khan of the plank, and a king of the sea and a great lord of Leviathans was Ahab.
Moby-Dick CHAPTER XXX
エイハブはプランクのカーンで海のキングでリヴァイアサンの偉大な主だった。
こんなふうに「たとえ」を列挙するのもメルヴィルっぽく笑いを誘います。
一等航海士のStarbuck (スターバック)は人気カフェチェーンの名前の由来としても有名ですね。
白鯨で人気のあるキャラクターといえばIshmaelの相棒Queequeg(クイークェグ)です。
物語の序盤で、宿を探していたIshmaelは、相部屋でベッドもなく同室の客と一緒に寝る羽目になります。その相手が人喰い人種のQueequegでした。
Upon waking next morning about daylight, I found Queequeg’s arm thrown over me in the most loving and affectionate manner. You had almost thought I had been his wife.
Moby-Dick CHAPTER IV
翌朝目が覚めたとき、クイークェグの腕がぼく上にとても愛情深く、優しく投げかけられているのに気づいた。ぼくのことを妻だと思っていたんだ。
もうこのエピソードだけでおもしろいのですが、その後Queequegと意気投合して一緒に捕鯨船ピークォド号に乗り込むことになります。
白鯨には豊富な比喩とユーモアがあり、クスッと笑ってしまうような文章がたくさん出てきます。
The act of paying is perhaps the most uncomfortable infliction that the two orchard thieves entailed upon us.
Moby-Dick CHAPTER I
お金を払うという行為は2人の果樹園泥棒がぼくたちに課した最も不愉快な刑罰だ。
2人の果樹園泥棒とはアダムとイブのことですね。
このように随所にギャグが散りばめられていて、くすくす笑いながら読んでいました。
白鯨の結末は有名ですし、古典にネタバレも何もないような気がしますが、ここでは結末は言わないでおこうと思います。
カミュは不条理な作品として『白鯨』をあげていましたが、鯨に関する蘊蓄が延々と続くところはカフカの『城』を読んでいるような気分でした。城(白鯨)の周りをぐるぐると回っているだけで、一向に城(白鯨)に辿り着けない……。
しかし、中盤が途方もなく長い分、白鯨と対決するラスト3章は圧巻のカタルシスです。白鯨とは神か悪魔か……世界の不条理に戦いを挑んだエイハブと船員たちの物語。
混沌の海の中に飲み込まれてしまうような作品でした。

初めて『白鯨』を読んだのは学生時代で、当時の岩波文庫から出ていた阿部知二訳でした。現在の岩波文庫では新訳の八木敏雄訳が出ています。手元にないのですが邦訳でも再読したいと思います。
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