【本の紹介】市河晴子『欧米の隅々』

読書

2022年に素粒社から出版された市河晴子『欧米の隅々』の紹介記事です。印象に残った文章の引用と共に感想を書いています。

プルーストの翻訳者としても知られるフランス文学者の高遠弘美先生の編集により、2022年に素粒社から市河晴子『欧米の隅々』が出版されました。

渋沢栄一の孫娘でもある市河晴子が、夫である英語学者の市河三喜の欧米視察に同行し、書かれた紀行文が『欧米の隅々』です。さらに、『米国の旅・日本の旅』からもいくつかの文章を選び、まとめられたのが本書です。

夏休みの一時帰国でようやく手にすることができて、年末までゆっくり少しずつ読んでいました。慌ただしい日々の中で、ほっと一息つける幸福な読書時間でした。

美しい描写と比喩

読み始めるとまず文章の見事さに舌を巻きます。

青白いガス灯の光が、全て白壁のみの家並みのまがりくねった小路に、反映し陰影を作り、藻を透かして月光に人魚の町を覗くような無限的な眺めであった。

市河晴子『欧米の隅々』(素粒社)P.159

川端康成を彷彿とさせるような美しい感覚的な文章です。この部分を気に入ってる読者は私の他にもいらっしゃるようです。

見る対象によって自在に書き分ける比喩の巧みさおもしろさ。章ごとに今度はどんな表現が出てくるのか楽しみにしながら読んでいました。

ストックホルムからフィンランド行きの汽船に乗るところで、

「海上に満月が登る。先月の十五夜はスペインのカステイルの高原で見た。旅に出て大分になる」

市河晴子『欧米の隅々』(素粒社)P.182

満月が時の経過を教えてくれる。

前に満月を見たのはいつだったか覚えているでしょうか。

文学の力の一つですが、彼女の文章を読んでいると、現代人が忘れかけている大切なものを思い出させてくれます。

言いたいことも言えないこんな世の中じゃ

市河晴子の文章のおもしろさの一つは、おかしいと思ったらおかしい、嫌だと思ったら嫌だとハッキリ言うところです。

好きなことだけではなく嫌なことも、歯に衣着せずに表現するのが『枕草子』から続く随筆の伝統なのかもしれません。

嫌いなことだけではなく好きなことをハッキリ言うのも勇気がいる場合があります

特に印象的だったのはスペインで闘牛を見たときのことを書いた文章です。

そして私の心は六度、陶酔と、感嘆と、唾棄と、羞恥との間をゆすぶり廻されるのだった。

市河晴子『欧米の隅々』(素粒社)P.152

闘牛を見た時の興奮を率直に語ります。

動物愛護を恐れずに闘牛の感動を語るのには勇気がいります。

誰でも発信できるインターネット時代になって自由に発言できるようになったかと思えば、批判を恐れて当たり障りのないことばかり言うようになってはいないでしょうか。

自由闊達な彼女の文章を読むと、

「息苦しいのを世の中のせいにしてはいないか、怖がって萎縮しているのは自分自身なのではないか、恐れずに言いたいことを言うべきではないか」と、気づかされます。

異国での眼差し

その国人の生活の中にまじり入った満足、大仰に云えばその国の包容されたような気分は、遠来の珍客としてもてなされ、馴れないで不自由だろうといたわられる快い団欒の中にある時より、こうしたマーケットで得られる事が多い。

市河晴子『欧米の隅々』(素粒社)P.159

初めてタイに来たときのことを思い出しました。

今はだいぶ変わってきたように思いますが、タイでも日本から観光に来た人たちの中にはマーケットや屋台では食事をしないという人たちがいます。

衛生面から避けているのだと思いますが、やはり地元の人たちと一緒にマーケットや屋台で一緒に飲み食いするのも旅の醍醐味です。

海外で暮らしていると、そこでの生活に慣れてきて新鮮な気持ちで世界を見ることを忘れてしまいます。

ユーモア、笑い、戦前の空気

市河晴子の歴史の知識や、教養の広さ、深さに圧倒されますが、彼女の文章は難しいものではなくて読んでいて思わず笑ってしまうようなユーモアに溢れています

ドイツに行った時にはショーウィンドの婦人服を見て下記のように言います。

一式整ってい過ぎてコーヒーセットじゃあるまいし。

市河晴子『欧米の隅々』(素粒社)P.192

ドイツに行けばヒトラーが、イタリアに行けばムッソリーニがいる時代で、ほのぼのした観光旅行ではありません。

皆隣の国と仲悪るで、一つ置いて隣と仲よしだ。女学校時代にすぐ上の級と喧嘩してその上の級と親しんだものだ。国家なんて鹿爪らしい顔しているが、やっぱり似たもんだ。

市河晴子『欧米の隅々』(素粒社)P.193

「昭和の学校も今と同じだな」と、くすりと笑ってしまう文章ですが、戦前の空気の中でこそユーモアが必要だったのかもしれません。

しかし、現代が平和な時代かといえばそんなことはありません。

海外に行けば、いろんなところで爆破事件や銃撃事件があったりする、そんな時代に私たちも生きています。

この紀行文にも感じられる時代の不穏な空気は、もはや他人事ではなく切実なものとして迫ってきます。

大変な時こそユーモアを忘れずにいたいものです。

日々旅にして、旅を栖とす

旅から旅に暮らしたものには、また二度身の廻りにベットリ纏いつこうとしている情愛とか義理とかが、窒息的にうるさい。

市河晴子『欧米の隅々』(素粒社)P.306

旅が好きな人や海外で暮らしている人の多くが感じていることだと思います。

日本の村社会から離れて気楽に暮らす経験をしてしまうと、べったりとした人間関係に戻ることができなくなってしまいます。

これは「帰国」の章に書かれた文章なのですが、立て続けに家族を亡くし、紀行文として完璧な終わり方になっています。

その後、市河晴子も46歳でこの世を去ります。

日本の有名な作家でいえば、芥川龍之介は35歳、太宰治は38歳、三島由紀夫は45歳で亡くなりました。彼らの作品を読むときに、これは晩年に書かれたもので、この後に自ら命を断つのだ、ということを考えてしまいます。

あとがきで高遠先生が書かれている通り、終わりを知っている読者はそこに人生の無常や悲哀のようなものを読み取ります。

誰もが自分の年齢と比較して考えると思います。彼らと比べて私は何と長く生きていることか、自分ももう晩年かもしれない、などと……。

今、異国の地に根を張りつつある身として、自分がいつどこで朽ち果てるか思いやられます。

お正月休みにシラチャのブックカフェLearners Cafeに来てこの記事を書いています。『欧米の隅々』はカフェの本棚にも置いてあるので、ぜひ手にとって見てください。

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